武将ヒゲが猛者猛者になるまで

今のところ私は「今の」「私の」考えしか述べることしかできません。また、人間は「より快」になろうとするんだと今は思っています。

School Food Punishment

School Food Punishmentが活動休止していたことをつい先日知った

個人的にはもっと続けてほしかった

伸びていくと思ったのに

業界の厳しさを僕は知らない

僕は、というより恐らくほぼ全ての「ファン」というものは、身勝手だと思う

勝手に気に入って、勝手に「生き残ってほしい」と願う

 

神山さんはどう思っておられるだろうか

 

ちょうどサカナクションと同時期に出会ったのを覚えている

技術技量の面ではサカナクションの方が上達が早かったが、とがり方はどちらも心地よかった

技さえ磨けば、と思っていた

 

ああ

そんなところで立ち止らないで

ビックカメラ

ビックカメラの自転車用品売り場にはおどろいた

シマノ製品全品お取り寄せ可」だってさ

ツーリングとシューティングはセットなのか?

カメラ屋が家電売ってんだと思ってたのになぁ、ぼんやりしてらんないね

グローブやパッチが近くで買えるのは本当にありがたい

修理もしてくれるそうな、高いけど

 

ソフマップもちゃんと(?)入っているけど、なんか、アキバソフマップだっけ?

「秋葉原がこの町にもやってきた」とか書いてあったけど

ていうことはソフマップは「秋葉原」の名前を使う許可を得てるってことだよね

すごいよね

R18のコーナーもあった(それで秋葉原なのか?)

二枚あるピンクのビニールすだれの間が微妙に開いていて中が見えるという演出は実に憎い、素敵

普通に入りゃいいんだけどね

逆に隙間から中のぞいたりしてたら店員さんに声かけられるよ

それはそれで絵的に面白いからいいけど

「読んだ」とは何か

ブログへのアクセス数は、そのブログを読んだ人の数ではない

そのブログが読まれた回数でもない

今調べて知ったけれど、会社によって、ページビューセッションユニークユーザ、何を数えてアクセス数としているかは変わってくるという

ブロガーが自分のブログの評価をどこではかるのかはブロガーそれぞれだろうが、アクセス数ではなく、読んだ人の数を評価とするなら、誰も自分のブログの評価を知ることはできないだろう

読まれた回数を評価としても同じである

 

日常生活の中ではいちいち考えないことだが、我々は自分の書いたものを「読まれる」ことができない、と思う

感想を聞くことはできる

読んだよ、と言ってもらうことはできる

しかし、私でいうところの「読む」という行為、私と同質の「読む」という行為を、他人が行ったかどうかはずっと分からない

我々は他人が「読んだ」ことを了解することしかできない

他人が「読んだ」ことは、我々の中に我々自身の経験として立ち上がることはない

ある人が「読んだ」ことは、その人の中にしか経験として立ち上がらない

 

「読む」ということが数学に乗る形で定義できれば、「読まれた」ことをブログの評価とすることができるだろう

悪い意味

「くだらない」とか「ばかばかしい」という言葉が、悪い意味の言葉として広く受け入れられてしまっている気がする

辞書にもそういう風に書いてあるようだし(少なくとも精選版日本国語大辞典広辞苑第六版には)

これらの言葉の根っこにあるのは「物質的な豊かさを我々にもたらさない」ということだと僕は思うのだけれど

だから「くだらない(ばかばかしい)が、おかしく、おもしろい」ということはありうる

「滑稽」なんてことばはもとは辯舌鮮やかなことを言っていたらしいけど、今じゃ「くだらない(ばかばかしい)おかしさ」に重点を置く言葉になってるんじゃないだろうか

 

 

今まで4年間、僕のケータイは、電話の着信ではアドレス帳の名前が反映され表示されるのに、メールはなぜか名前が反映されず、送信元のアドレスを見て「これはあの人だな」ということを識別しなければならない状態にありました

ところがついさっき、治った

このやろうめ、このやろうめ

くだらない・ばかばかしい

くだらないことやばかばかしいことにも、寛容な人間でいたいと思う

 

男が歩いていたがつまづいてこけた

起き上がって数歩歩くと、またこけた

「なんだ起きなきゃよかった」

 

これはまだ気の利いた方だと思うけどね

 

ようは僕が面白ければいいわけで