武将ヒゲが猛者猛者になるまで

今のところ私は「今の」「私の」考えしか述べることしかできません。また、人間は「より快」になろうとするんだと今は思っています。

マンガ

昨日、5月6日は特別な日だった

昨日は一年ぶりに「自分で買ったマンガ」を読んだから

豊田徹也の「珈琲時間」(アフタヌーンKC)

この人は、うますぎる(少なくとも単行本が出ている「アンダーカレント」と「珈琲時間」では)

 

今敏(念のためにふりがな「こん さとし」)は「悲しみを表現するとき、例えばキャラクターが泣いているシーンを描いても、それは泣いていることを描いたに過ぎないのだ。悲しみを描いたことにならないのだ」と言っていた

これはもちろん悲しみの表現として泣いているシーンを描くことに否定的なのではなく、悲しみ、あるいは諸情動の表現が、時々によって差はあれ、困難であるということを言っている

 

豊田徹也は彼自身の表現で見事に、実に見事にその困難を解決する

当然ながら、あるコマに悲しみがあるわけでなく、文脈に悲しみがあるわけだが、彼の文はすっきりしていて、静かだ

線も文字も、煩くない

需要と供給のグラフが交わる点あたりで、彼は描く

 

今まで読んだ彼の話の中では、底抜けに明るい話は稀であった

どこかに不安や鬱屈や悲しみが見える

しかし彼は「それでいい」といった感じで描いてくる

人によっては彼の作品を読んで、非常にイライラするだろう

彼はどうも、キャラクターの問題解決の過程を楽しませるタイプではないようだからだ

それでも、解決されなくていいのであった

彼によって、彼のキャラクターによって解決されずに残ったものを見て、私は感動する